屁理屈の陰に本心あり

屁理屈という言葉、大人どうしではあまり使わない。

屁理屈とは、こじつけや道筋の立たない道理の事を意味している。

こじつけとは無理に理屈をつけること、そして道筋は物事が辿る道の事。

屁理屈は手順を踏まないで無理やり強引に自分勝手な理屈をつけて言うので屁理屈と言う。

なぜ屁理屈について考えてみるのか。

理屈に合わないことを言われると普通は腹が立つものだが、自分の場合、なぜ理屈に合わないことを言われているのかまず考えとどめてしまうところがある。

ほんとに頭の回転が鈍い、すなわち鈍感なのでなぜ相手が理屈に合わないことを言おうとしているのかを考えてしまうものだ。

だが大の大人同士ではあまりそのようなやりとりはないかもしれない。

むしろ身内、嫁さんや子供達相手には自分でも未熟だと思うような感情をさらけ出して後悔してしまうものだ。

だが腹を立ててしまえば相手の思うツボなのである。なぜなら腹を立てるということは、本心を曝け出していることになるからである。

腹が立つことの中には、どこかに自分の弱みが潜んでいるものである。

自分の弱みや本心を相手に曝すことは、心理的には相手に負けてしまったことになる。

屁理屈を言うのは、その人にそれ以上の手がないときである。日常場面では、屁理屈で解決を引き延ばしているだけ、ということになる。

自分にとって関係のない人や関係の薄い人だったら放っておくのが最善だ。まさに金持ち喧嘩せず、の態度。

だが上司や部下、同僚、友人では放っておくことができない場合がある。いやでも付き合っていかなければならないので、ものごとを解決する必要がある。そのような場合はどうだろうか。

まず、どうして相手がそこまで変な理屈を言うのかを理解することである。

「屁理屈を言うな」っと叱咤するのはこの場合、最低の方法である。嘘をついている人に「嘘をつくな」と言ってもまず効果はない。

自分も子供に対しては効果がないことが分かっていても言ってしまうことがある。最も下手な尋問である。

嘘をついたり屁理屈を言ったりするのは、真実を言ったり理屈どおりにすると都合が悪いからである。

本当はそれをしたくないのである。

こちらとしては、相手にその点を気付いてもらえばもらえばよい。

理屈通りにするとどのように都合が悪いのかを自覚してもらった上で、それを相手に押し進めてみることだ。

理屈に合わないことを自らの責任で推し進めると、必ずどこかで破綻する。なぜなら屁理屈とは、押し進めれば論理の破綻をきたすものだから。

もし破綻しないようなら、それは屁理屈ではない。こちらの考えを修正する必要がある。

子どもに無理をさせる、あるいは仕事で部下もしくは後輩に厳しい業務を任せるような時も屁理屈が生じる機会となる。

仮に仕事を任せる時、誰でも普通にやればできる仕事ができないなら能力の問題か、あるいは部下や後輩の自分に対する反抗、ということになる。

あるいは無理な仕事をさせたのであればさせた本人が悪い、ということになる。

一番厄介なのは、仕事や任せた人間に対して反抗心や抵抗感をもっている場合である。

意識的か無意識的かはわからないが、任せられた人間は任せた相手が困る事を望んでいる。

任せた相手が心理的、経済的、実際的損傷を受けたのとと同じくらい、心理的、経済的、実際的損傷の思いが任せた相手にあると思った方がいい。

「言ったほうは水に流すが、言われた方は岩に刻む」

という格言がある。

人間は他人の言動には敏感だが自分の言ったことには鈍感なものである。知らず知らずのうちに、自分の行動が相手に抵抗や反抗をうんでないか、よく考える必要がある。

相手を切り捨てるのは簡単かもしれない。しかし人を切り捨てた場合、自分の人格の成長はそこで止まる。人格の成長が止まると自分はやがて他人に切り捨てられるか、裏切られる。相手を理解し、彼も満足、自分も満足する道を発見できたら、自分はこのピンチを真に乗り越えられるのである。

それにしても屁理屈というものは不思議なもので、自分が行っているときはなかなか気づかず、理屈が通っているように感じるのである。

自分のは屁理屈に気付くのは簡単なことである。

自分が哲学や理論を言っている時は、相手はどこか納得している。これに対して、言っているのが屁理屈の場合は、相手も屁理屈で切り返すか、議論にならない議論へと発展する。

自分の主張が屁理屈だと気付いたならば、その時点で議論を避けるのが、成熟した態度といえる。

屁理屈を言われる場合、屁理屈で返す必要はなく、そのまま「そうだね」と受け入れるのが大人の態度である。そうすると相手は自分の屁理屈から自分の成長する法呼応が見つけられる。

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