エッセイ・随筆

1.大人の流儀

大人とは何か。考えさせられる伊集院静さんのエッセイ。
お酒に飲んで失敗を繰り返す姿、一人で鮨屋で食べる姿、とても真剣に生きる姿。
生き様はとても真似できるものではないが、読んでいて楽な気持ちになる。
やはり一人の時間を大切にしている。
自分なりの流儀を見つけていきたい。

2.祖国とは国語

国家の根幹は国語教育にかかっている。国語は、論理を育み、情緒を培い、すべての知的活動・教養の支えとなる読書する力を生む。

情緒の役割は頼りない論理を補完したり、学問をするうえで重要というばかりでなく、人間としてのスケールが大きくなる。

地球上の人間は利害損失ばかりを考えており、これは仕方がないが、人間としてのスケールは、この本能からどれだけ離れられるかでほぼ決まる。

小さい頃からほとんどといって読書をせず、授業で受けるテストの偏差値も散々たるものであった自分としてはこの国語力がいかに重要であるかをひしひしと感じ、読書の重要性を社会人になってようやく感じて読書に励んでいた矢先に出くわした本である。

数学者であるゆえにこれだけわかりやすく文章が書けるのだろうか、と感じる。以下の文章は強烈に印象に残った。

・国語が思考そのものと深く関わっていることである。言語は思考した結果を表現する道具にとどまらない。言語を用いて思考するという面がある。ものごとを考えるとき、独り言として口に出すか出さないかはともかく、頭の中では誰でも言語を用いて考えを整理している。
・人間はその語彙を大きく超えて考えたり感じたりすることはない、といって過言ではない。母国語の語彙は思考であり、情緒なのである。
・日本人にとって、語彙を身につけるには、何はともあれ漢字の形と使い方を覚えることである。日本語の語彙の半分以上は漢字だからである。これには小学校の頃がもっとも適している。記憶力が最高で、退屈な暗記に対する批判力が育っていないこの時期を逃さず、叩き込まなくてはならない。強制でいっこうに構わない。漢字の力が低いと読書に難渋することになる。
・地球上の人間のほとんどは、利害損失ばかりを考えている。これは生存をかけた生物としての本能でもあり、仕方のないことである。人間としてのスケールは、この本能からどれほど離れられるかでほぼ決まる。
・アングロサクソンの文化が世界を覆いつくし、他の文化や伝統は衰微の道をたどるだろう。言語支配の行く末は、我が国でアイヌや琉球のたどった運命を考えれば大概は想像がつく。言語とは文化伝統であり民族としてのアイデンティティーなのである。世界の各地に花咲いた美しい文化伝統を守り発展させる、ということは人類最大の大義と言ってよい。この大義のためには、便利や効率の徹底追及から身を引き、正解共通語を作らないという多言語主義をとるしか他ない。不便な世界を受け入れるしか他ないのである。
・大学の本領は直接の応用を視野にいれない基礎研究にあり、それこそが国家の科学技術力の基礎なのである。
・国語はすべての知的活動の根幹である。国語は、思考の結果を表現する手段であるばかりか、国語を用いて思考するという側面もあるから、ほとんど思考そのものと言ってよい。これが充分な語彙と共に築かれていないと、深い思考が不可能となる。

ちなみに知的なユーモア感覚にあふれる短いエッセイが多くあり、くすっと笑える内容ばかりだ。その中に発見を重んじる制振と卑怯を憎む心という情緒力を感じさせる。

満州再訪記は歴史を知る上でとても勉強になる感慨深い内容となっている。

日本人に限らず、外国の方にもお勧めしたい、本である。

3.ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

作者はイギリス在住で、夫はアイルランド人。この本でには、イギリスの中学校で生活する息子のことが書かれているが、学校の授業で習った「エンパシー」という言葉について、次のようなことが書かれている。

息子の脇で、配偶者が言った。

「ええっ。いきなり「エンパシーとは何か」と言われても俺はわからねえぞ。それ、めちゃディープっていうか、難しくね?で、お前、なんて答えを書いたんだ?」

「自分で誰かの靴を履いてみること、って書いた」

自分で誰かの靴を履いてみる、というのは英語の定型表現であり、他人の立場に立ってみるという意味だ。日本語にすれば、empathyは「共感」、「感情移入」、または「自己移入」と訳されている言葉だが、確かに、誰かの靴を履いてみるというのはすこぶる的確な表現だ。

(・・・)

息子は続けた。

「EU離脱や、テロリズムの問題や、世界中で起きているいろんな混乱を僕らが乗り越えていくには、自分とは違う立場の人々や、自分と違う意見を持つ人々の気持ちを想像してみることが大事なんだって。」

実は、息子が通う学校の校長先生からのお便りの中で、この本で書かれている、エンパシーという言葉について、上述した「誰かの靴を履いてみる」ことについて、こうコメントしていた。

「私たちは文字通りに他の人の靴をはくことはできませんが、その人の靴をはいたつもりで、相手の状況や気持ちに対して、イマジネーションを働かすことはできるのではないか。」

「私たちは一人ひとり違った人間です。想像力を働かして、自分と違う相手を理解するように努めましょう。そして、相手の良いところを探すようにしましょう。また、相手が何に困っているのか、何を必要としているのか気づくようにしましょう。」

この本に加え、この校長先生のコメントにも感銘を受け、買いたいと思っていた矢先、実家に帰省していたら実や母がこの本を読んでいて置いてあったのを気づき、借用して読んでみた次第だ。

中学生の息子は底辺中学に通うが、毎日が事件の連続。

人種差別丸出しの美少年、ジェンダーに悩むサッカー小僧。時には貧富の差でギスギスしたり、アイデンティティに悩んだり。世界の縮図のような日常を、思春期真っ只中の息子と母ちゃんである著者は、ともに考え悩み乗り越えていくというストーリー。

多様性は楽じゃないけど「楽ばっかりしていると無知になる」というブレイディみかこがいうように、この中学生の感性が高まる少年時代に多様性を深く考え、現実を受け止めて体験し、学ぶことはとても大事なことなのだと思う。

大人の凝り固まった常識を、子どもたちは軽々と飛び越えていく姿に感動する。

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