最近、長女がとても気に入っている絵本だ。
この絵本、結構長いので読む方は大変なのだが、ここ最近、ずっと、寝る前に読む本でほとんどと言っていい程、リクエストしてくる。
宮沢賢治の有名な本なので、もちろん知っていたのだが、実はじっくり読んだことはなかった。
繰り返し繰り返し長女に読んであげるために音読していくにつれようやく宮沢賢治の伝えたかったことがわかってくるような。
6歳になった長女にとっては難しいような気もするのだが、いろんな動物が次々登場してきてゴーシュと不思議な会話をするものだから、ドキドキするのだろうか。
あらすじはざっと以下のような内容である。
ゴーシュは町の楽団でセロ(チェロ)を担当している。町の音楽会で発表する第六交響曲の練習をしているのだが、彼だけが下手なままで、団長からきつく叱られる。
ゴーシュは帰宅してからも一生懸命にセロの練習をしていた。すると三毛猫がやってきて、「シューマンのトロメライをひいてごらんなさい。きいてあげますから」と言い出す。猫は、ゴーシュのセロを聴かないと眠れないようだ。猫にからかわれていると思ったゴーシュは怒ってしまい、「印度の虎狩」という曲を演奏して猫を追い出す。
次の晩も帰宅したゴーシュがセロを弾いていると、かっこうがやってきた。かっこうは、「かっこうのドレミファ(音階)を学びたい」とねだる。うんざりとしたものの、かっこうの練習に付き合っているうちに、ゴーシュは音階の感覚を掴んだ。しかし最後は追い出してしまう。
その次の晩は狸の子がやって来て、「小太鼓の練習がしたい」と言った。一緒に練習をしていると、狸の子がセロの2番目の糸が遅れていることを指摘し、ゴーシュもこれを素直に聞き入れて練習した。
さらに次の晩、今度は野ねずみの親子がやってきた。子どもが病気なので、セロの演奏で治してほしいとのことだ。ゴーシュが子ねずみをセロの孔の中に入れて演奏すると、子ねずみの具合は良くなった。
音楽会当日、楽団の演奏は大成功を収めた。観客の興奮冷めやらぬ中、アンコールの演奏に指名されたのはゴーシュだった。自分はからかわれて指名されたのだと思ったゴーシュは、「印度の虎狩」を激しく演奏した。しかし観客は皆真剣に聴き入り、団長も興奮しながら彼の演奏を褒め称えた。
毎晩の動物たちの訪問によって、ゴーシュは自分でも気づかないうちにセロの腕を格段に上げていたのだった。ゴーシュは遠くの空を眺め、追い出してしまったかっこうに謝った。
ゴーシュの性格は粗野で、楽長に叱られた鬱憤晴らしに、弱者(生意気な猫)を虐めるなど卑屈な若者として描かれている。しかし動物たちへの無償の行為を通じて次第に謙虚さと慈悲の心が芽生え、それによって真に音楽を理解できる青年へと成長していったという物語になっている。
ゴーシュは猫から何も学ばなかったが、知らずに重要な曲の選択と予行演習をここで行っている。ゴーシュはカッコウとの反復練習で自らの音程の狂いを自覚する、さらにタヌキの鋭い指摘によって、自分の楽器の特性を知った。また、ネズミの母親からゴーシュが人知れず役立っていることを教えられ、自信を持つ。ゴーシュは、小心者だったが、この自信によって大観衆を前に怒りをぶつける度胸を獲得した。
リズム、音程、感情の三つが改善された結果、ゴーシュの演奏が聴衆の心を動かした。ゴーシュは楽長から褒められて初めて自分の上達を知り、動物達から恩恵を受けていたことに気づいた。
ちなみにカッコウに謝罪しながら、猫への謝罪がないことについて、「単に賢治が猫嫌いだったから」という説や、「猫を虐め過ぎると二度と帰ってこなくなる、謝罪でめでたしとならない生き物であることを賢治はよく知っていた」という説、「最後のせりふは回想であり謝罪ではなかった」という説など様々な議論があるようだ。
なんて奥が深い物語なんだろう。
宮沢賢治の世界は自分も大好きだ。
そして最近、次男の教科書に載っていた「注文の多い料理店」を読んであげたところ、これまた長女は気に入ったようだ。
これからもっと宮沢賢治の世界に触れさせてあげたいと感じた次第である。
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